英語という選択 ・・・ アイルランドの今

アイルランドでは長くケルト語の一つであるアイルランド語が使われていたが、17世紀のイギリスによる植民地化から徐々に英語が浸透し、19世紀の百年をかけてほぼ英語に置き換わった。憲法でアイルランド語が第一公用語、英語が第2公用語と定めているが、現在、アイルランド語を日常語として使用するのは人口の2%以下の西部・南部に残っている辺境地域だけである。政府はバイリンガル政策をすすめており、ほとんどの人にとってアイルランド語は学校で学ぶ「外国語」である。
このような現状に対して国民の意見は英語という大言語を使用するメリットを評価する一方、アイルランド語をアイデンティティの基盤と考えており、自分が話さない・話せないことにある種の「後ろめたさ」を感じている。この言語交代は「ひとえに、親たちが子供の将来を思ってのこと」であるが、このことが彼らの心情を複雑にしているのだろう。
要約すれば以上の内容である。一国内の言語の交代・消滅は珍しい話ではなく、日本でもアイヌ語はもとより、「方言」も私が子供の頃に話されていたものからは随分と変質しているだろう(琉球語の現状については私は知識がない)。しかし、国全体をあげての言語交代はやはり大きな実験に違いない。
私の問題意識を著者も共有しているようなので、まとめの部分から引用しておく :

最終章においていまいちど確認しておきたいのは、アイルランドはなにか特別なことをしたために言語交替が起こったのではないということだ。第二章で詳しくみたように、その根底にあるのは、「順位づけ」というありふれた社会的行為である。結果的に言語交替を引き起こすことになった、アイルランドの母親の「わが子にはアイルランド語よりも英語を」という選択は、自分の方言よりも標準語のほうにわが子の将来をみる母親、「子どもには英語をしゃべらせたい」と願う日本の親と、なんら変わるところがない。そしてこのことは、言語もほかのさまざまな事物と同様に社会的な価値判断の対象になる以上、しごく自然なことである。・・・日本で近年盛んになっている、早期の英語教育導入の議論、国民が英語を話せるようにするための英語教育の議論は、空気のようにある日本語を前提としている。言い換えれば、その議論は、英語が日本に浸透して多くの国民が英語を日常的に話すバイリンガルになったあとのことまでは考えていない。・・・これからの日本のことばのことを議論するときに、私たちが知っておかなければならないのは、国民の多くが英語とのバイリンガルになったときには英語に傾くスピードが断然速くなるということである。

コメント

  1. 神谷 英一郎 より:

    アイルランドのおさらいを簡単にしておくと :
    地理 : 面積は北海道と同程度。ただし、北部の1/6の北アイルランドはイギリス領。
    人口 : 500万人弱; アメリカをはじめ、世界各地に植民した人口の方がずっと多いだろう。
    歴史 : 古代、ケルト人が開いた土地である。1652年に至り、イギリス(クロムウェル)が侵略、植民地化した。さらに1801年には併合されてイギリスの一部となった。1840年代後半、ジャガイモ飢饉により多くのアイルランド人がアメリカへ移住(日本では天保の大飢饉の頃)。1916年の鎮圧されたイースター蜂起以降、独立の機運が高まり、1938年にイギリスが独立を承認、さらに1949年には英連邦を離脱した。

  2. 山田 博英 より:

     生まれた子供は右脳でお乳をすい言葉を獲得しながら周りの状況を把握し、そのうち左脳で言語を獲得し言語で世界に対応して自立してゆく。その過程でローカル言語から標準言語へと欲求してゆくがそれが行き過ぎると自己が自律の確保ができなくなりローカルを希求するのではないでしょうか?

    • 神谷 英一郎 より:

      山田さん、言語にかかわる脳の働きについて、私の考えはちょっと違います。
      幼児は言語を習得するすばらしい能力を持っています。しかし、この能力は6歳ころから急速に失われ、8歳でほぼ消滅します。その代りに10歳の子供は論理的な思考ができるようになり始めます。
      以上は私の観察ですが、この観測事実を説明する仮説として、私は幼児において言語習得にかかわっている脳の部分が9歳の1年をかけて結線され直して論理に使用されるようになるのではないかと考えています。この仮説に従えば、幼児において習得した母語は極めて特別な言語であると言えます。

      さて問題の、標準言語では自律の確保ができないという件、要はアイデンティティの基盤をどこに求めるかでしょう。日本人というアイデンティティなら標準語で十分です。それより小さな領域のアイデンティティが、人生のある時点で必要になる人もいて不思議はありません。アイルランド人の場合はその言語が英語という外国の、しかも長く抑圧を受けてきた隣国の言語であるという事情があり、アイデンティティの基盤になりにくいでしょう。そのせいかどうか、「アイルランド英語」はアイルランド語から取り込まれた独自の表現がたくさんあるようで、その独自性が失われつつあるアイルランド語の代わりを演じているそうです。

      • 山田 博英 より:

        僕は脳には自分の身体に繋がった脳と社会に繋がった脳の二種類あり、其の内部での相互の繋がりが個を形成すると考えると今考えている社会モデルに都合が良いのですが、神谷さんの上の話しはとてもよく身におちます;
        言語能力;身体能力に繋がる脳で気持ちに通ずる
        論理能力;社会に於ける自分の存在保持
        これでよいでしょうか。現状論理能力が言語能力にうまく落ちなくなってきている、社会構造が自分の気持に合わなくなってきていてそこをどう調整するかが課題となってきている、この現状認識はどうでしょうか。

  3. 神谷 英一郎 より:

    言語能力・論理能力という脳機能の区分けは、私には賛成できません。
    言語は人が他人(=社会)とつながる最も重要なツールでしょ。
    論理は、落語で大家さんが若者に「つべこべ屁理屈ばかり並べやがって」と言って切り捨てる程度の、日常生活では大して役に立つものではありません。
    もう少し違う名前を考えた方がよろしいかと。

    • 山田 博英 より:

      神谷さん、お待ちしていました。他人と繋がるツールは言語と気持ちがあると思います。言語は論理に閉じた言語と気持ちに通じた言語があoると思います。この2つを左脳言語、右脳言語としたいのですがどうでしょうか。

      • 神谷 英一郎 より:

        「論理に閉じた言語」が理解できません。
        言語だか脳だかを2つに分けて、どういう結論を導きたいのでしょうか。

        • 山田 博英 より:

          神谷さん、これはどうでしょうか;

          一番有名であろうと思われる右脳と左脳の違いは、「左脳は理屈、右脳は感覚」でしょう。恐らく、左脳に言語中枢がある人が多いことから、「左脳で言葉を考える」→「左脳で物事を考える」→「左脳で理屈を考える」→「左脳は理論的なものに使う」と推測されるようになったものと思われます。
          右脳はそれと逆の考えでしょうね。実際、理屈的なものを考えてるときには左脳の活動が活発になり、芸術的な絵を見たり音楽を聞いたりしているときには右脳の活動が活発になることが観測でわかっています。ですから、この違いは事実無根というわけではありませんが、理論的なことを考えてる時は右脳も活動していますし、音楽を聴いている時は左脳も活動しています。
          http://www.brain-studymeeting.com/dif/lr/

          • 神谷 英一郎 より:

            山田さん、右脳・左脳はわかりますが、言語や論理に関して「閉じている」「開いている」が理解できません。

  4. 山田 博英 より:

    神谷さん、能力不足の僕としてはこのへんの事を神谷さんに言語化してほしいなと思っているのですがとりあえず;
    ー いいなーと思うのは右脳、正しいなーと思うのは左脳。
    ー 直接知らない人のネットなんかの発言にもいいなーと思うのと
      正しいなと思う発言がある。

    と言うのは良いでしょうか。

    • 神谷 英一郎 より:

      脳に「左脳=論理」と「右脳=非・論理」の思考があるとして、それでどういう結論を導きたいのでしょうか。
      「開いている=よい」「閉じている=ダメ」と関係あるのでしょうか。

      • 山田 博英 より:

        さて今僕等の住んでいる社会システムですが、会社で嫌な仕事でもこなさなければならないときに交換する言葉は自分の気持に通じていない言ってみれば左脳に閉じた言語でコミュニケーションされます。そのようにして作られてきた社会システムはいま皆にとって楽しいもの、気持ちの通じた社会になっているのでしょうか。僕は気持ちの打ち沈むものになってきていると思っているのですが。それをもっと楽しいものに作り変えるとするともっと気持ちのこもった言葉でコミュニケーションせねばなりません。しかもこれからはネット上の顔の見えないコミュニケーションとなるので、そのようなコミュニケーションを通して新しい人の気持ちの通う世界をつくれないだろうかということなのですが。

        • 山田 博英 より:

          アイルランドの場合には植民地化される前はローカルな生活で生きることそのものが楽しく右脳に通じた言葉で話していた。英語になってから世界も広がり経済的にも豊かになって幸福になったように感じていたが今になって個を取り戻したい、もっと気持ちの通じる社会にしたいという解釈ではどうでしょうか。そしてこれは世界の先進国で一般的に感じだされていることではないのでしょうか。

      • 山田 博英 より:

        ということでなんとか右脳に繋がった世界にならないか、自然に繋がった世界にならないか、と思っているのですが職人気質なんてまさにそのような生き方ですね。それをなくしてしまうような社会システムはどうにかせねばならない、そのような社会構造はどういうもので現状をそ個へ持って行くにはどうすればよいのか。

        • 神谷 英一郎 より:

          話が逆です。

          × それ(引用者注・社会?)をもっと楽しいものに作り変えるとするともっと気持ちのこもった言葉でコミュニケーションせねばなりません。

          ○ もっと生きやすい社会で暮らしていれば、もっと気持ちのこもった言葉でコミュニケーションできるようになるでしょう。

          × そのようなコミュニケーションを通して新しい人の気持ちの通う世界をつくれないだろうか

          ○ 人の気持ちの通う世界をつくることでもっと気持ちのこもったコミュニケーションができるようになる

          アイルランド人は失ったものの大きさに気が付いてメゲているかもしれないけれど、得たものを手放すつもりはないでしょう。つまり、リセットボタンを押してもまた同じ選択をします。

          • 山田博英 より:

            どの様にすれば人の通う世界を作れるかが課題ですね。政治に頼ることできる感じではありませんね。